団子坂 の巻
2016年 03月 31日
「不忍通り」から見た「団子坂下」です。
森鷗外「青年」
《壱》
......
二人は又狭い横町を抜けて、幅の広い寂しい通を横切って、純一の一度渡った、小川に掛けた生木の橋を渡って、千駄木下の大通に出た。
菊見に行くらしい車が、大分続いて藍染橋の方から来る。
......
「それじゃあ、いずれその内」
「左様なら」
瀬戸は団子坂の方へ、純一は根津権現の方へ、ここで袂を分かった。.,,,,
(青空文庫)
メトロ東西線千駄木駅出口1を出ます。
そこは「不忍通り」
左へ10歩歩くと「団子坂下」の交差点です。
左へ曲がります。
ここから「団子坂上」の交差点を目指します。
椿、沈丁花、躑躅、皐月、楠、紅要黐
の鮮やかな赤い新葉が団子坂を通る人びとに春の訪れを知らせているのです。
「団子坂」には街路樹はありません。
ビルの前には、
ソヨゴが植えらています。
薄紫色のツツジ、ヤマブキが咲いています。
クリスマスローズは白い花と薄紅色の花がうつむいて咲いています。
ヒイラギナンテンの黄色い花の香水のような香りが歩道まで届くのです。
爪先上がりの坂道の脇には
キンモクセイが橙色の若葉を伸ばし、
鉢で育てられているクジャクヒバの葉をひとつまみ、揉んで鼻にもってくると
とても香りが良いのです。
背の低い千両は赤い実をつけています。
千駄木3丁目側でちょいと横丁を覗くとキンカンの実がまだ幾つか残ってぶら下がっています。
「団子坂」の団子売り
夏目漱石「野分」
ホトトギス 1907年明治40年1月
《五》
.......
向うの机を占領している学生が二人、西洋菓子を食いながら、団子坂の菊人形の収入について大に論じている。
......
菊人形の収入についての議論は片づいたと見えて、二人の学生は煙草をふかして往来を見ている。「おや、富田が通る」と一人が云う。「どこに」と一人が聞く。
......
(青空文庫)
「団子坂」を自転車で走行できる方、
押して歩く方色々です。
「団子坂」の曲がり道
夏目漱石著「三四郎」 〜五より
....坂の上から見ると、坂は曲がっている。
刀の切っ先のようである。幅はむろん狭い。
右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分さえぎっている。
そのうしろにはまた高い幟が何本となく立ててある。
人は急に谷底へ落ち込むように思われる。.......
「団子坂」の説明板
千駄木3丁目側の大きな榊の木の下に設置されています。
「団子坂上」の交差点
坂上の角の東洋大学国際会館 共同住宅の植込みには
キンモクセイ、シラカシ 、サツキ、 モミジ、ベニカナメモチ、クスノキ...
が植えらています。
千駄木2丁目と3丁目との間の坂道
「団子坂」の両脇には色とりどりの花が咲いています。
地元の住民は花卉を慈しみ歩く人びとを歓迎してくださっているようです。
ありがとうございます。
「団子坂下」から「団子坂上」までは
歩数210歩・約2分で到着します。
「三四郎」〜五 より
.......広田先生はこの坂の上に立って、「これはたいへんだ」と、さも帰りたそうである。
四人はあとから先生を押すようにして、谷へはいった。......
「文京区立 森鷗外記念館」
設計:陶器二三雄
「団子坂」の途中が「団子坂上」の交差点です。
ここからさらに歩を進めますと平地になり
「森鷗外記念館」が左側に現れます。
「団子坂下」から「森鷗外記念館」までは歩数290歩・約3分で到着します。
ここからさきは「大観音通り」の商店街です。
「夏目漱石旧居跡(猫の家)・千朶山房跡」への道でもあるのです。
小金井喜美子著「鷗外の思い出」
〜団子坂の家・曙町の家〜
......兄は間もなく、俗に太田の原という処に移りましたが、そこは暫くの仮住いでした。
後に夏目漱石氏の住まわれた家なのです。
それから団子坂に移りました。
それまで千住で郡医などをしていた父は年も老いたので、兄と一緒に住むためにと、父母連れ立って地所を探して歩いた時、団子坂の崖上の地所が目に止ったのです。
団子坂はその頃流行の菊人形で、秋一しきりは盛んな人出でしたので、父も人に誘われて見に来たこともありましたし、近くに「ばら新」という、有名な植木屋のあるのも知っていたのです。......
夏目漱石著「三四郎」
四
......ある日の午後三四郎は例のごとくぶらついて、団子坂の上から、左へ折れて千駄木林町の広い通りへ出た。秋晴れといって、このごろは東京の空もいなかのように深く見える。
坂下では菊人形が二、三日前開業したばかりである。.....
*団子坂の上から、左へ折れたすぐに
「森鷗外記念館」が建っています。
森鷗外「青年」
1910年明治43年3月〜翌年の8月 スバルに連載
引用文は「観潮樓」門前の藪下通りを抜けて団子坂上に出たところです。
《壱》
.......
四辻を右へ坂を降りると右も左も菊細工の小屋である。
国の芝居の木戸番のように、高い台の上に胡坐をかいた、人買か巾着切りのような男が、どの小屋の前にもいて、手に手に絵番附のようなものを持っているのを、往来の人に押し附けるようにして、うるさく見物を勧める。
まだ朝早いので、通る人が少い処へ、純一が通り掛かったのだから、道の両側から純一一人を的にして勧めるのである。外から見えるようにしてある人形を見ようと思っても、純一は足を留めて見ることが出来ない。
そこで覚えず足を早めて通り抜けて、右手の広い町へ曲った。
.....
瀬戸は名刺を出して、動坂の下宿の番地を鉛筆で書いて渡した。
「僕はここにいる。
君は路花の処へ入門するのかね。
盛んな事を遣って盛んな事を書いているというじゃないか」
「君は読まないか」
「小説はめったに読まないよ」
二人は藪下へ出た。
瀬戸が立ち留まった。
「僕はここで失敬するが、道は分かるかね」
「ここはさっき通った処だ」
「それじゃあ、いずれその内」
「左様なら」
瀬戸は団子坂の方へ、純一は根津権現の方へ、ここで袂を分かった。
(青空文庫)
東京都文京区千駄木1丁目〜3丁目にて
森鷗外『二人の友』より
..... 果して安国寺さんは私との交際を絶つに忍びないので、自分の住職をしていた寺を人に譲って、飄然と小倉を去った。
そして東京で私の住まう団子坂上の家の向いに来て下宿した。
....丁度そこへF君が来て下宿した。
東京で暮そうと思って、山口の地位を棄てて来たと云うことであった。