森鷗外『渋江抽斎』風の歴史小説技法を取り入れた本書は、下巻にその趣が著しい。
豊臣秀吉に仕えた前野将右衛門という、妻以外の美しい女性に襲われ、それと別に襲われ未遂もあった、死ぬまで女性に恵まれた男が主人公。
本小説の擱筆後、現地木曽川の川原に腰を下ろし本書に登場した前野将右衛門、その妻あゆ、蜂須賀小六、お市の方、吉乃......を偲ばれたという著者を思う読者は時空を超えて清冽な木曽川と深い河ガンジス川とが重なるのです。
主人公、将右衛門の一生は最後の最後まで女性の香りが失せることのない殿方が羨む素敵な人生でした。
妻「あゆ」には生涯にわたって常に愛し続けるよう躾けられつつ、思わずゴクリと唾を飲むほどの美貌の「吉乃」に恋をする。
春の小川のほとりで草花を摘みながらあかるく笑っていた信長さまのお妹、少女の頃からの「お市さま」を存じ上げ、
孫六兼元の刀に♩会いたさ、見たさに怖さを忘れ「吉乃」に似た美女「お栄」に会ってしまう。
死を前にして、闇の遠くから聞こえてきた大変な美女であります「鶴」の可憐な唇から流れる闇笛の音に包まれるようにして生涯を終えた男。
♩うさぎ追いし伊木山
♩こぶな釣りし木曽川
思い出すは「あゆ」「吉乃」「お栄」.....
多くのものに支えられて生きた幸福な男、オペラ・ブッファにできそうな
将右衛門の物語です。
父親の墓と並んで、雑司ヶ谷墓地に眠る永井荷風は織田信長の母の実家、土田家の子孫であったと、大変に興味深い事実を知ることができました。
『男の一生』 遠藤周作 著
1991年 日本経済新聞社