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後志国(しりべしのくに)の平民/夏目漱石 の巻


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画像: 積丹半島の古地図
「口蝦夷」に当たる口の字の左側に「イワナイ」と書かれています。

道南方面一帯は「口蝦夷」と書かれています。

江戸時代に作成された蝦夷闔境輿地全圖(えぞこうきょうよちぜんず)より
(札幌市中央図書館蔵)


蟹堂・高原 操の紀行文『極北日本 樺太踏査日録』

「序」の文中に、夏目「漱石」は岩内町に「送籍」したという事が記されています。


『極北日本』序

余は東京の場末に生れたものであるが、妙な関係から久しい以前に籍を北海道に移したぎり、今に至つて依然として後志國の平民になつてゐる。

原籍のある所を知らないのも變だと思つて機會があつたら一度海を越えて北の方へ渡つて見たい積りでゐたが、つい積り計りで實行の決心は容易に出來ず、來る年來る年を荏苒(じんぜん)と暮して仕舞つた。

二三年前ある知人が、あちらへ行くから一所に行かぬかとわざわざ勧めて呉れたが、其の時も都合が悪くて矢張愚図々々東京に殘つてゐた。

戸籍面からいふと故郷ともいふべき北海道ですら斯の通りだから、其先の樺太へ旅行などは固より思ひも寄らぬ事で、樺太と云へば嘸寒いだらうと想像する位がせきの山であつた。

所が去年の夏我社の講演會があつたとき蟹堂君と同じ組になつて、堺と大阪と二ヶ所で、君の樺太談を二席聞いてから樺太が大いに面白くなつた、「極北日本」には此二席で述べ足りない所が悉く布衍してあるのだから、余から云へば、其面白さが又遺憾なく布衍された譯になる。

樺太の記事中膃肭臍(オットセイ)の叙述は、此動物の生活状態に暗き余を、大いに驚かしたものである。

然し君の筆に上つた長官や第一部長の名も亦官吏の動靜に無頓着な余を少なからず刺戟した。

蟹堂君が親しく大経営の方針を聴いたといふ平岡長官や、それから君が世話になつたといふ中川第一部長は、二人共豫備門時代に於ける余の同窓である。

平岡君とは夫程親しくはなかつたが、中川君とは別懇の間柄であつた。

たしか學校を卒業した時の話だと記憶してゐるが、知り合ひの某々等がある序で顔を合はした折り、座上を見廻して此うちで誰が一番先に馬車に乗るだらうといつたものは此中川君であつた。

誰も答へない先に、まあ己だらうなと云つたものも此中川君であつた。

其時居合はした五六の卒業生のうちで出入りに馬車を驅つてゐるものが今あるかないか、まだ調べて見ない余の知らう筈もないが、少なくとも中川君丈は、慥かに橇に乗つて樺太を横行してゐるに違ひない。

その時の一人であつた某理學士も近々樺太へ轉任するといふから、これも中川君と前後して橇に乗る事だらう。

蟹堂君の筆は縦横に自在である。
だから何でも構はず筆に任せて洒落のめし過ぎるのが、憾むらくは君の文章の煩ひになりはせぬかと危まざるを得ない。

けれども「極北日本」は高級な藝術的作物の積りで書いたのでない事は、讀者も承知して置く必要がある。

蟹堂君は新聞の讀ものとして、其日々々をたゞ我我に面白く讀ませるため、成るべく内容の平板単調を補ふ工夫に出たのである。

だから蟹堂君の書き方は、單に文學的といふ方面から見れば短所もあらうが、新聞の續き物といふ刺激を一位に置かなければならない條件つきの文章を本義として見ると、中々に成功した才筆に相違ないのである。

大正元年十月 夏目漱石


文學士法學士 高原 操著
『極北日本 樺太踏査日録』
東京 政教社蔵判 1912年大正元年12月発行
(出典: 国立国会図書館デジタルコレクション)



*1912年大正元年とは、
七月二十日 明治天皇崩御

九月十七日 明治天皇大喪

十二月六日 新聞小説「行人」の連載開始。



「序」文中の中川君とは、夏目漱石、中村是公らと結成した「十人会」の一人であった中川小十郎の事です。

中川小十郎は樺太庁赴任後、1912年に西園寺公望を学祖とした「財団法人 立命館」を設置しました。

平岡君とは樺太庁長官平岡定太郎の事です。
平岡公威つまり、三島由紀夫の祖父です。

「それから」には、
代助とは中学時代からの知り合いという
平岡常次郎なる人物が登場します。

妻子より男子との交歓の時を大切に生きた夏目漱石の熊本時代の元教え子蟹堂君つまり高原操を愛おしむ優しさが非常によくあらわれた文章です。

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画像: サハリンの北部です。
地名は北蝦夷唐太・一名サカレイン(Sakhalin)

1854年嘉永7年に作成された蝦夷闔境輿地全圖(えぞこうきょうよちぜんず)より
(札幌市中央図書館蔵)


夏目漱石(金之助)

1892年 明治25年4月5日
牛込区馬場下町から
後志国岩内郡吹上町十七番地浅岡仁三郎方に本籍を移す。

1897年 明治30年1月22日
岩内郡岩内町大字鷹台町54番地浅岡仁三郎方に転籍。

1914年 大正三年六月二日
東京市牛込区南町七番地へ転籍。
(現在の新宿区早稲田南町7番地)
(出典: 北海道ファンマガジン2008/03/14)
(Web版 夏目漱石デジタル文学館|県立神奈川近代文学館)


1969年 昭和44年3月 岩内町字御崎13番地には記念碑「文豪夏目漱石立籍地」が建立されております。

岩内町郷土館にて夏目漱石の戸籍謄本のレプリカを展示しています。
(岩内町 総務財政課 広報担当者のご協力を得ました。ありがとうございました。)

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by abdulmajid0922 | 2016-11-04 10:15 | Comments(0)