「蛇くひ」泉鏡太郎/蛇飯 夏目漱石 の巻
2017年 01月 09日
「新著月刊」
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蝗いなご、蛭ひる、蛙かへる、蜥蜴とかげの如ごどきは、最もつとも喜よろこびて食しよくする物ものとす。語ごを寄よす(應おう)よ、願ねがはくはせめて糞汁ふんじふを啜すゝることを休やめよ。
もし之これを味噌汁みそしると洒落しやれて用もちゐらるゝに至いたらば、十萬石まんごくの稻いねは恐おそらく立處たちどころに枯かれむ。
最もつとも饗膳きやうぜんなりとて珍重ちんちようするは、長蟲ながむしの茹初ゆでたてなり。蛇くちなはの料理れうり鹽梅あんばいを潛ひそかに見みたる人ひとの語かたりけるは、(應おう)が常住じやうぢうの居所ゐどころなる、屋根やねなき褥しとねなき郷がう屋敷田畝やしきたんぼの眞中まんなかに、銅あかゞねにて鑄いたる鼎かなへ(に類るゐす)を裾すゑ、先まづ河水かはみづを汲くみ入いるゝこと八分目はちぶんめ餘よ、用意ようい了をはれば直たゞちに走はしりて、一本榎いつぽんえのきの洞うろより數十條すうじふでうの蛇くちなはを捕とらへ來きたり、投込なげこむと同時どうじに目めの緻密こまかなる笊ざるを蓋おほひ、上うへには犇ひしと大石たいせきを置おき、枯草こさうを燻ふすべて、下したより爆と火ひを焚たけば、長蟲ながむしは苦悶くもんに堪たへず蜒轉ぱツ/\のたうちまはり、遁のがれ出いでんと吐はき出いだす纖舌せんぜつ炎ほのほより紅あかく、笊ざるの目めより突出つきいだす頭かしらを握にぎり持もちてぐツと引ひけば、脊骨せぼねは頭かしらに附つきたるまゝ、外そとへ拔出ぬけいづるを棄すてて、屍しかばね傍かたへに堆うづたかく、湯ゆの中なかに煮にえたる肉にくをむしや――むしや喰くらへる樣さまは、身みの毛けも戰悚よだつばかりなりと。.....
(青空文庫)
画像:泉鏡花墓碑
鏡花 泉鏡太郎墓 と刻まれています。
戒名:幽幻院鏡花日彩居士
お参りをする間に聞こえて来る都電荒川線「都電雑司ヶ谷」駅直ぐそばの踏切の
警報音が郷愁を感じます。一句浮かびそうです。
雑司ヶ谷霊園にて
夏目漱石「吾輩は猫である」1905年 明治38年1月「ホトトギス」
迷亭君の語る懐旧談より「蛇飯」
《六》
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「その時分の僕は随分悪あくもの食いの隊長で、蝗いなご、なめくじ、赤蛙などは食い厭あきていたくらいなところだから、蛇飯は乙おつだ。早速御馳走になろうと爺さんに返事をした。そこで爺さん囲炉裏の上へ鍋なべをかけて、その中へ米を入れてぐずぐず煮出したものだね。不思議な事にはその鍋なべの蓋ふたを見ると大小十個ばかりの穴があいている。
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すると一分立つか立たないうちに蓋の穴から鎌首かまくびがひょいと一つ出ましたのには驚ろきましたよ。やあ出たなと思うと、隣の穴からもまたひょいと顔を出した。また出たよと云ううち、あちらからも出る。こちらからも出る。とうとう鍋中なべじゅう蛇の面つらだらけになってしまった」「なんで、そんなに首を出すんだい」「鍋の中が熱いから、苦しまぎれに這い出そうとするのさ。やがて爺さんは、もうよかろう、引っ張らっしとか何とか云うと、婆さんははあーと答える、娘はあいと挨拶をして、名々めいめいに蛇の頭を持ってぐいと引く。肉は鍋の中に残るが、骨だけは奇麗に離れて、頭を引くと共に長いのが面白いように抜け出してくる」「蛇の骨抜きですね」と寒月君が笑いながら聞くと「全くの事骨抜だ、器用な事をやるじゃないか。それから蓋を取って、杓子しゃくしでもって飯と肉を矢鱈やたらに掻かき交まぜて、さあ召し上がれと来た」「食ったのかい」と主人が冷淡に尋ねると、細君は苦にがい顔をして「もう廃よしになさいよ、胸が悪るくって御飯も何もたべられやしない」と愚痴をこぼす。「奥さんは蛇飯を召し上がらんから、そんな事をおっしゃるが、まあ一遍たべてご覧なさい、あの味ばかりは生涯しょうがい忘れられませんぜ」.........
(青空文庫)
画像:夏目漱石・キヨ墓碑
戒名:文献院古道漱石居士
圓明院清操淨鏡大姉
雑司ヶ谷霊園にて
雑司ヶ谷霊園といえば、夏目漱石「こころ」です。
「こころ」
上 先生と私
《四》.......
始めて先生の宅を訪ねた時、先生は留守であった。二度目に行ったのは次の日曜だと覚えている。
........すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
私はその人から鄭寧に先生の出先を教えられた。
先生は例月その日になると雑司ヶ谷の墓地にある或る仏へ花を手向けに行く習慣なのだそうである。
「たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒そうにいってくれた。
私は会釈して外へ出た。
賑かな町の方へ一丁ほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。
先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。
それですぐ踵を回らした。......
《五》......
墓地の区切り目に、大きな銀杏が一本空を隠すように立っていた。
その下へ来た時、先生は高い梢を見上げて、「もう少しすると、綺麗ですよ。
この木がすっかり黄葉して、ここいらの地面は金色の落葉で埋まるようになります」といった。
先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。.......
下 先生と遺書
《五十》......
国元からKの父と兄が出て来た時、私はKの遺骨をどこへ埋めるかについて自分の意見を述べました。
私は彼の生前に雑司ヶ谷近辺をよくいっしょに散歩した事があります。
Kにはそこが大変気に入っていたのです。
それで私は笑談半分に、そんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。
私も今その約束通りKを雑司ヶ谷へ葬ったところで、どのくらいの功徳になるものかとは思いました。
けれども私は私の生きている限り、Kの墓の前に跪いて月々私の懺悔を新たにしたかったのです。
今まで構い付けなかったKを、私が万事世話をして来たという義理もあったのでしょう、Kの父も兄も私のいう事を聞いてくれました。
(青空文庫)